2009年06月30日

中華人民共和国の北京市にある天安門広場において

四五天安門事件(4.5 てんあんもんじけん)とは、1976年4月5日に中華人民共和国の北京市にある天安門広場において、同年1月に死去した周恩来追悼の為にささげられた花輪が北京市当局に撤去されたことに激昂した民衆がデモ隊工人と衝突、政府に暴力的に鎮圧された事件、あるいは、この鎮圧に先立ってなされた学生や知識人らの民主化を求めるデモ活動を包括していう。1989年6月4日に起きた六四天安門事件と区別するため、第1次天安門事件ともいう。

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1971年の林彪失脚以降、毛沢東は文化大革命の行き過ぎを是正すべく、追放された鄧小平を党中央部に呼び戻して周恩来と協力して国力の復興を任せたが、江青ら文革の強硬派「四人組」と鄧小平、周恩来との対立がおこり、政治情勢は依然として不安定であった。

中国国民は打ち続く文化大革命の混乱に嫌気が差し、文化大革命に一定の距離を置いていた周恩来を尊敬していた。周を孔子になぞらえて批判し失脚をはかった四人組による「批林批孔運動」が国民の支持を集めなかったのも、そこに原因があった。人々は復権した鄧小平を事態を収拾してくれる人物として喜び四人組に反感を持っていた。

ゆえに1976年1月の周恩来の死は国内に大きな悲しみをひきおこし、周を評価し四人組を攻撃する壁新聞が出回り始めるなど文革全盛期にはあり得なかった事態が起こっていた。江青たちはこうした空気に危機感を募らせていた。


2009年06月12日

神谷美恵子による研究

日本語で「生きがい」と言うと、対象を指す場合と、感情を指す場合がある。生きがいを感じさせる対象を「生きがい」と呼び、それを感じる人の感覚・感情を「生きがい感」と呼び分けることもできる。人は長い一生の間にはふと立ち止まって自分の生きがいは何であろうか、と考えてみたりすることがあり、このようなときは、大まかにいって次のような問いが発せられるわけだろう、と神谷は述べる。

自分の生存は何かのため、またはだれかのために必要であるか。
自分固有の生きて行く目標は何か。あるとすれば、それに忠実に生きているか。[8]
人間が最も生きがいを感じるのは、自分がしたいと思うことと義務とが一致したときだと思われ、それは上記の問いの第一と第二が一致した場合であろう、と述べる。だが、これらは必ずしも一致しない。生活のための職業とは別に、ほんとうにやりたい仕事を持っている人も多い。それらの両立が困難になると、うっかりすると神経症になる人もあり、中には反応性うつ病や自殺にいたる人さえいる[9]。

「生きがい感」を一番感じている人種というのは、使命感に生きている人(自己の生存目標をはっきりと自覚し、自分の生きている必要を確信し、その目標にむかって全力で歩いている人)、ではないか、と述べる[10]。このような使命感の持ち主は、立派な肩書や地位を持って目立っているというわけではなく、むしろ人目につかないところに多くひそんでいて、例えば小、中学校の先生、特殊教育に従事する人、僻地の看護士など、いたるところにいる、と述べる。

社会的にどんなに「立派」とされることをやっている人でも、自己に対してあわせる顔のない人は次第に自己と対面することを避けるようになる。心の日記もつけられなくなる。ひとりで静かにしていることも耐えられなくなり、自分の心の深いところからの声に耳をかすのも苦しくなる。すると、生活を忙しくして、この自分の心の深いところからの声が聞こえぬふりをするようになる。この、「自己に対するごまかし」こそが、生きがい感を何よりも損うものである、と指摘する[11]。
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使命感に生きる人にとっては、たとえ使命半ばで倒れたとしても、事の本質は少しもちがわない。自己に忠実な方向に歩いているかどうかが問題なのであって、その目標さえが、正しいと信じるところに置かれているならば、使命の途上のどこで死んでも本望であろう、と述べる。これに対して、使命にもとっていた人(使命に背いていた人)は、安らかに死ぬことすらできない

2009年06月08日

教育委員会制度改革の動向

教育委員会制度は、以前からその形骸化が指摘され、活性化論と廃止・縮小論が展開されてきた。

教育委員会の廃止解体・縮小を真っ先に強く主張したのが、新自由主義経済改革を推進する社会経済生産性本部であった。同会は、1999年(平成11年)に、『教育改革に関する報告書―選択・責任・連帯の教育改革』を発表。その中で、小中学校と高校が市町村と都道府県という別レベルの教育委員会にゆだねられている意味が無いことや教育委員会が公選制でないために、文部行政の末端となっていること、更に、教育委員会の強大な権限と官僚的な組織が、学校の主体性の発揮を阻害していることなど、現行の教育委員会制度を厳しく批判し、社会教育・生涯学習部門の可能な限りの民間委託と学校教育に関する権限の校長への移管により、教育委員会の大幅な整理縮小を大胆に主張した。

さらに、全国のいわゆる改革派市長からは、後に記すように、教育委員会制度の廃止解体・縮小論が公然と強く打ち出された。地方六団体の一つである全国市長会は、2001年(平成13年)「学校教育と地域社会の連携強化に関する意見―分権型教育の推進と教育委員会の役割の見直し―」を出し、「文部科学省を頂点とする縦系列の中での地域の自主的な活動の弱さ、学校教育関係者以外との接触の希薄さに伴う閉鎖的な印象、市町村長との関係のあり方など」の問題を指摘した。そのうえで、検討課題としながらも、教育委員会の任意設置や市長と教育委員会の連携強化、首長と教育委員または教育長との日常的な意見交換を提言した。生涯教育分野に関しては、「縦割り型ではなく、多方面からの総合的な対応が望ましいこと、このような分野に関しては、教育の政治的中立性確保といった理由から特に教育委員会の所管とすべき強い事情があるとも考えられない」として市町村長の所管とすべきとしている。

実際、その2ヵ月後の2001年4月には、島根県出雲市において、首長部局の中に文化財、芸術文化、スポーツ、図書館などの社会教育・生涯学習分野を移管された。これにより、教育委員会事務局は、学校教育に特化される業務を担うこととなった。同様の動きは、愛知県高浜市、群馬県太田市など、他の市にも広がっている。いわば、教育委員会の解体ないし縮小は、事実上、進行しているといえる。
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地方分権を推進する国からも、声が挙がる。地方分権改革推進会議は、2004年(平成16年)に、「各地域の実情に応じて地方公共団体の判断で教育委員会制度を採らないという選択肢を認めるべき」と教育委員会の必置規制の弾力化を求める意見書を提出している。同会議は、「生涯学習・社会教育行政の一元化、幼保担当部局の一元化の観点から、地方公共団体がこれらの担当部局を自由に選択・調整できるようにすることが必要」とも述べ、地方分権時代の到来に備えた地方教育制度の新たな基盤整備の重要性を訴えている。(「地方公共団体の行財政改革の推進等行政体制の整備についての意見」―地方分権改革の一層の推進による自主・自立の地域社会をめざして―)

これを後押しする形で、「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2004」が閣議決定され、その中では、「地域の創意工夫を活かし、学校の自由度を高めるため、平成16年度内を目途に教育委員会の改革と合わせ、教育内容等に関する校長の権限強化と学校の外部評価の拡充に向けた方針を示す」ことが明示された。

中井浩一は、「教育界全体にあっては、改革にもっとも熱心なのは文科省」で、「市町村教育委員会の独自性を押さえ込んでいるのは、都道府県教育委員会である」と指摘する。「その理由に挙げられるのが『全県一律』『教育の機会均等の原則』『地域格差をなくす』」というものである。

2009年04月24日

新石器時代の大規模集落

放棄されていた時期を挟み、今から9400年前から7000年前にかけて、新石器時代のテル・アブ・フレイラの集落(アブ・フレイラ2)が成立した。これは最初の集落より10倍は大きく、15ヘクタールの面積のある当時の中東でも最大級の集落であった。泥レンガから長方形の住居が作られ、古い住居が崩れた泥の上に新しい住居を再建したため、集落の下には大きな丘ができあがりはじめた(これが後に遺丘となる)。栽培されていた植物の種類は飛躍的に増え、発見された当時の人々の骸骨に残っていた変形から、同時の人々は農業に関する重労働、とりわけ粉ひきで体を酷使したことが示唆されている[1]。また家畜を集めて飼育することも始まった。今から7300年前には土器が使われ始め[2]、機織りもその少し前に始まった。この集落は今から7000年ほど前、紀元前5900年から5800年頃に放棄されたと考えられる。

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発掘
テル・アブ・フレイラは1972年と1973年に発掘調査が行われた。ユーフラテスをせき止めるタクバ・ダム(Tabqa Dam)の建設により川沿いの遺跡が水没する前に緊急調査が行われ、この遺跡の調査もその一環であった。数多くの遺物や穀類などが発見され、その後研究が進められている。最初の調査報告は1983年に、最終報告は2000年に出版された[3]。発掘に当たったのはイギリスの人類学者アンドリュー・ムーアで彼は穴などに堆積したやわらかい土砂と手付かずの硬い土壌を見極めながら丹念に発掘作業を行った。

分析
また発掘の後ムーアとその同僚は土壌試料を浮揚装置にかけ、712の種子サンプルを取り出すのにも成功している。この装置は種子などの植物の残滓や魚の骨、小さいビーズを土壌から分離する物だった。そうして計712のサンプルを入手し、それぞれの試料には150種類以上の食用植物の種が500個ほど含まれていたことが判明した。この結果から植物学者のゴードン・ヒルマンは約1万3000年前のアブ・フレイラでどのような植物が採集されていたかを再現することに成功する

2009年04月07日

エレクトロ・ポップ

エレクトロ・ポップ(Electropop)は、シンセサイザーで作られた、1978年から1981年にかけて最初に流行したエレクトロニック・ミュージックの一形式である。エレクトロ・ポップは、チャート指向のシンセポップが開拓した大量市場を基盤として生まれた。多くのバンドは、1990年代と2000年代もエレクトロ・ポップの伝統を守り続けた。

エレクトロ・ポップは、冷たくロボット的で、電子音を強調するのが特徴であり、これによってシンセポップと区別される。それは、当時の初期アナログシンセサイザーの制約によるところが大きい。また、近未来SFに縁取られた、異星人的で無表情な歌詞も特徴とする。

大部分のエレクトロ・ポップは、シンプルで覚えやすいフックとダンスビートのポップ・ミュージックである。ただし、そのダンスビートはエレクトロ・ポップがインスパイアを与えた、のちのエレクトロニック・ダンス・ミュージック─テクノ、ハウス、エレクトロクラッシュ、etc.─の超シンプルなダンサビリティとは異なる。

多くの初期エレクトロ・ポップ・アーティストは英国人であり、デヴィッド・ボウイの〈ベルリン時代〉のアルバム、『ヒーローズ』と『ロウ』の影響を受けた。ほかの大きな影響源は、ドイツのバンド、クラフトワークと日本のバンド、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)である。また、いくつかのグループはニューヨークのシンセ・パンク・グループ、スーサイドや、クラウト・ロックのバンド、ノイ!、クラスター、カンからもインスピレーションを受けた。

北ヨーロッパには実験的で前衛的な電子音楽の長い歴史があるが、エレクトロ・ポップにはほとんど影響をおよぼしていない。だが、その前衛的な電子音楽の伝統は、「BBCラジオ・音響ワークショップ」や「ロンドン電子音楽スタジオ」のような組織において十年以上にわたり技術的な専門知識を蓄積した。それらの組織は、シンセ・ロックの先駆者たち─ブライアン・イーノ、ロキシー・ミュージック、タンジェリン・ドリーム、ピンク・フロイドの仕事を後援した。

エレクトロ・ポップは1970年代終わりから1980年代はじめの英国音楽プレスにおいて、「アドルフ・ヒトラー記念室の警備員」(ミック・ファレン)と呼ばれ、ひどく軽蔑された。

エレクトロ・ポップは、そのシンセ・サウンドが1980年代初頭の英国ニュー・ロマンティクス・ムーブメントとも密接に関わり合っている。また、初期エレクトロ・ポップは、サンプラー使用と後のレイヴ要素をもった、ニュー・オーダーの記念すべき1983年のシングル「ブルーマンデー」によって大きく変わった。その後エレクトロ・ポップは10年にわたる〈冬の時代〉を迎える。その「ブリップ音とビープ音」は近代性という意味をはぎ取られ、レイヴ・カルチャーにとっては新ロマン主義的な懐古の対象となった。

エレクトロ・ポップは、人種差別とファシズム思想が一部から疑われていたにも関わらず、デトロイトを中心に米国の黒人文化の中で流行した。ア・ナンバー・オブ・ネイムスやサイバートロンのようなミュージシャンは、R&Bやファンクをもとに独特のスタイルのエレクトロ・ポップを追究し、デトロイト・テクノ・シーンを創り上げた。また、ニューヨークのアフリカ・バンバータもクラフトワークをサンプリングすることによって、ヒップホップのエレクトロ・スタイルを発明した。

エレクトロ・ポップは2000年代初めにエレクトロクラッシュ・ムーブメントとしてリバイバルした。それはフェリックス・ダ・ハウスキャット、ルーク・スレーターのようなアーティストと、ロンドンのNag Nag Nag、Kashpoint、Electrogogoのようなナイトクラブによって、ダンスシーンを背景に爆発した。

ロンドン、ニューヨーク、ベルリン、そしてアナーバーのエレクトロ・クラッシュ・シーンから多くのエレクトロ・ポップ・ミュージシャンが登場し、2002年から現在にいたるまで人気アルバムを作り続けている。以下はその例である。フィッシャースプーナー、レディトロン、メルニク、テンポシャーク、ピーチズ、ゴンザレス、ザ・ウィップ、ドラゴネット、マシュー・ディアー、T・ロームシュマイアー、エレン・アレン、ミス・キトゥン、ザ・ナイフ、ホット・チップ、デンジャラス・ミューズ、レディー・ガガ、タフ・アライアンス、トリブリックス、ザ・プリセッツ、MGMT、マイクロフィルム、アルマミー、ダズ・イット・オフェンド・ユー、ヤー?、エリック・アンド・ザ・エリックスなど。

2000年代後半において、エレクトロ・ポップはヒップホップの人気低下もあり、米国のポピュラー・ミュージックの主要ジャンルにのし上がったように見える。以下はその大ヒット曲の例である。ブリトニー・スピアーズの「ギミ・モア」、「ピース・オブ・ミー」、「ウーマナイザー」、リアーナの「ディスタービア」「ドント・ストップ・ザ・ミュージック」、クリス・ブラウンの「フォーエヴァー」、レディー・ガガの「ジャスト・ダンス」、「ポーカー・フェイス」、ケイティ・ペリーの「キス・ア・ガール」、「ホット & コールド」、ジャスティン・ティンバーレイクの「セクシー・バック」など。

どんどん橋 バンケット ドラント カステラ セルフ ターン トーチカ ピアサポタ リーバス クロラール キッチ かほく ビジター スピカ 大地の景色 モンゴル 真昼の月日 ドス上位 オーバリ マグネ クロマト モンタント やんぐこ セレス カウハイド ハナショ たそがれ フカロッ ヒノキ ベット カリス マニキ こちんだ バイサイド ラフ アウト タイガー キュラ やまびこ ブーム 大冒険 スケット トランス ハーレム クライ ジンマカオ バック ロスマリン キレイ モアイ


2009年03月23日

空気バネ台車

名鉄の車両で初めて空気バネ台車を本格的に採用した。当時はまだ珍しかった車体直結式(ダイレクトマウント)空気バネで、1・2次車がベローズ式(FS-335)、3?7次車がダイヤフラム式(FS-335B)となった他、後に2次車の一部がダイヤフラム式に改造された。改造された台車はばね座の車体外側への張り出しが大きい。設計年次の新しい7500系の台車は当初からダイヤフラム式(FS-335A)である。

以上は軸箱支持がペデスタル式であるが、7000系の8・9次車のみは先に7700系で採用されたS型ミンデン式(FS-384)に変更されている。後年、8800系に流用されたのはこのS型ミンデン式台車である。但し、同系列は7000系中間車の初期製造分を廃車して主要機器を流用しているため、7000系後期車および7700系との間で台車の振り替えを行っている。

連続固定窓 [編集]
前面のみならず、側面もパノラマカーの名に相応しく、日本板硝子の協力を得て開発された最大180cm×85cmのガラス構成によるヒドゥンピラー式の連続固定窓である。扉と窓の配置は、展望室・車掌台部分を除き5500系までの2連2段窓が固定1枚ガラスに変わったものとみてよい。当初は金属枠支持の複層ガラスであったが、曇り防止のため7次車からHゴム支持の合わせガラスに変更された。後に6次車以前もすべて合わせガラスに交換し、特別整備を受けた車両はHゴム支持化も行われている(但し展望室の窓のみは金属枠支持のままで変更なし)。この窓の形状はキハ8000系を始めとして6000系初期車や5300系・5700系、また1枚窓ではあるが100系・200系にも採用され、室内の横引きカーテンと共に通勤車に至るまでパノラマカーのイメージが受け継がれている。また、名鉄特急 = 連続窓という伝統は1000系・1200系において一旦途切れたが、1600系や2000系・2200系では間柱部分の処理など従前と異なる形状で復活した。

その他 [編集]
本系列は15年間に亘って製造され、さらに特別整備や特急仕様化改装を受けた車両もあるため、台車、冷房装置、側窓支持方式、前頭表示板、座席などの変化の組み合わせにより、実にバラエティに富んでいる。外観で最も変化の判りやすい冷房装置は、1・2次車が5500系の量産版である分散式(4500kcal/h)、3?6次車が能力は同じでポンプレス型と呼ばれるタイプ[11]、7?9次車が集約分散式(8500kcal/h)[12]として台数を半減した。なお、先頭車は展望室の床置集中式冷房装置が6000kcal/h×2と、屋上搭載が4500kcal/h×6または8500kcal/h×3である。ブレーキの制輪子は7次車からレジンシューに変更され、従前車も特別整備の際などにレジン化されたが、中には比較的後年まで鋳鉄シューのまま残った編成もあった(7015F・7021F・7023F・7027F・7029F・7031F。そのため廃車の時期も他の車両より早かった。)。

元来は特急用であった本系列だが、増備につれて通勤列車に充当される機会が増えたため、4次車(モ7025-7028)からロングシート部分の高い位置につり革が4本設置された(後年の特別整備車では低くなり3本)[13]。さらに1973年暮れのオイルショック以降ラッシュ時の混雑が激化していたため、クロスシート2扉車[14]とロングシート3扉車とで比較実験が行われた。パノラマカーでのラッシュ対策車として1975年に登場したモ7050形7100番台車では扉が両開きとなり、ドア付近のクロスシート4脚分をロングシートに変更した。シートピッチも840mmに詰められている。しかし、実験の結果、3扉車とではラッシュ時の収容力や乗降時間の短さは比べ物にならず、以後、7100番台車に準じた両開き2扉・転換クロスシートの5700系・5300系(1986年)を唯一の例外として一般車は3扉車の時代へと入って行く。後に1984年、先の7100番台車のうちの2両が先頭車に改造されて7100系となった。なお、モ7050形7100番台車の転換クロスシートは前年にAL車・HL車の扉付近から撤去された流用品で、肘掛けの形状など5500系のものとほぼ同型である。
1990年(平成2年)に7700系の中間車を編入して以来、6両組成の中でも自動解結装置・電気連結器の有無によって連結運転が可能な車両と不可能な車両があり、内部的には前者(モ7750形組み込み)を「SR6」(5700系6両編成と共通運用)、後者(モ7050形7100番台組み込み)を「P6」と呼んで明確に区別していたが、2006年(平成18年)以降は連結運用が消滅したため、両者は共通運用となった(「P・NSR」運用。5700系6両組成2本も含む)。しかし、その6両組成は順次廃車が進み、2008年9月までに5700系6両組成の代用として7007Fのみが残されていたが、同月14日のさよなら運転をもって運用を離脱し、その後廃車となった。なお、4両組成はすべて連結運転が可能で、「P4」と略称される。

2008年12月26日まで定期ダイヤとして残った4両組成(P4)は普通の運用が中心であった。しかし、平日の朝に5700系・5300系4両組成を連結した8両編成での運用が存在しており(美合発急行新鵜沼行と折り返しの新鵜沼発準急内海行〈名鉄名古屋から急行。7000系は太田川止まり。〉)、休日の朝にはP4+SRs(7700系又は7100系2両)という編成も時々見られていた(下りの普通犬山行1本のみ〈鳴海までは7000系4両単独〉)他、5300系・5700系4両編成の代走で早朝の名鉄一宮発中部国際空港行の全車一般席特急の運用に就いたこともあった。また、6両固定編成(P・NSR)には準急・急行・快速急行の運用が若干あったが、同年6月29日のダイヤ改正で6両固定編成の定期運用は消滅し、7007編成のみは5700系6両組成の予備車として不定期ながら使用されていたものの、9月14日の臨時列車運用をもって運用を離脱した。西尾線には1999年の特急運用からの撤退以降ほとんど入線していなかった。また、竹鼻・羽島両線には建設限界の関係上で規制され、豊田線にはそもそも地下鉄への直通路線という位置付けのため、それぞれ入線したことがなかった。築港線にもホーム長さの関係から廃車時を除いて入線せず、小牧線にも入線しなかった(ATCが導入されている地下区間には入線不可)。しかし、西尾線と津島線には2008年8月9日に快速急行「三河湾 吉良吉田」号などで快速急行(佐屋?吉良吉田間)の一部列車に7011Fが使用された他、また各務原線と広見線には同月30日に特急「日本ライン 新可児」号として、尾西線には11月16日に「いちょう号」として森上駅まで、豊川線には12月6日に「いなり号」として入線し、いずれも同編成が使用された。

本系列を含めた5200系から7700系、8800系(登場時)までの名鉄の2扉オールM高性能車は、豊橋方の電動発電機・空気圧縮機搭載車と岐阜方のパンタグラフ・主制御器搭載車の2両で1ユニットを組み、車番の末尾を前者は奇数、後者は偶数としている。従って、編成を特定する場合は必ず奇数の車番で表すことになる。
シンビジ 検索ゆに 日光街道 熱帯魚 パース サーチ秀月 サンバ しべつ ジギタリ ドロス 章姫 ひまわり 風の森 リミング フラメンコ オライタイ トロイ オスロ バルバ バハマ タイリン 透明人間 アルコ いとの キーワ ランチドポ ハイフ 未来の果実 テイステ 若菜摘 コリーナ マントル ぼうし チャレン いながき マナウス ブイシネマ ネイショ プロ うすき ブリュッセ リコソウ プレメイ ウォーム よりどころ 流星 メリー たくぼ ひない クロス

方向幕は7037F(試験当時は72コマだが後に撤去)での試験を経て一部編成に設置された。コマ数は特急仕様車両(現役車両では7011F)では15コマ、一般車両では50コマ(最近まで現役だった車両では7001F。三河線の駅などが少ない他、八百津や古見など使用することのないコマが入っていた。)であり、6000系や3500系などで見られる標準の60コマより少なかった。また、白帯特急用の15コマは英字付きに更新されておらず(白帯解除後に従来の緑幕から青幕に変更されている)、「岐阜」や「豊橋」などの他に使用することが皆無な「日本ライン」や「三河湾」といったコマも入っていた。特急に用いられた当初、この15コマの方向幕は、行先を表すものではなく、列車名を表すものだったためである(後に豊明、金山などが追加され、行先としても使われている。)。そのため、表示できない行先のために行先板を用いることもあった。一般車両の種別幕にはかつて座席指定や座席特急と書かれたコマも入っていた(7045編成を最後に消滅)。また、7045Fは方向幕も特殊表示となっており、「岐阜(犬山経由)」など駅名の略表示や「広見(名古屋経由)」などといった他の車両では見られないコマも見られた。方向幕を装備していない車両で行先を表す場合、系統板を使わずシールを貼り付けて表すことがあった(この場合、東岡崎は岡崎と表示される。)。白帯車登場前は座席指定特急には黄色い方向板(当時は列車名を表示)が使われ、白帯車が特急として使われた時は緑色の方向板が使われていた。方向幕のない車両の場合、種別は普通列車や回送列車の時は無表示であるが、急行や準急として使われる場合は青地に黄文字で表す(漢字1文字のみで「急」「準」と表示。高速や快速急行〈2005年以後〉の場合は2文字表示のシールが使われていた)。また、現在は見られないが、特急を表す時は白帯車では灰色地に赤文字、一般車では青地に赤文字で「特」と表示していた。

5次車以降の側面には6000系などの側面方向幕のような形をした枠がある。これは座席指定表示灯(8・9次車はデジタル数字で号車も併記)の跡である。現在使用されることは皆無であるため、赤いカバーで覆われている。

4両組成と自動解結装置付き6両組成および7045Fではドア横にサボ受けが2つずつ上下に並べて設置してあった。特急時代は号車札や特急を表す種別札や指定席車を表すサボなどを差し込んでいたが、近年は使用されていなかった(7045Fは併結のできない6両組成であったため、廃車時まで号車札が差し込んであった。)。

かつて、各駅(瀬戸線を含む)では名鉄のりばを表すピクトグラムにパノラマカーのものが使われていた。後にパノラマスーパー(1000系特別車の側面)のものに変更となり、さらに一般的な電車を表すものに変更されている。現在でも変更されずに残っている駅もある。

2009年03月07日

シカゴ (CA-29)

シカゴ (USS Chicago, CL/CA-29) は、アメリカ海軍の重巡洋艦。ノーザンプトン級重巡洋艦の4番艦。艦名はイリノイ州シカゴに因み、その名を持つ艦としては二隻目。

艦歴
シカゴはメア・アイランド海軍造船所で起工し、1930年4月10日にE・ブリトゥンによって進水、1931年3月9日にM・H・シモンズ艦長の指揮下就役する。
ビーシ イズミル サイド トレハ シェブロ マイラー ホウオウ マドレーヌ マルチビ チャー ピナクル マックス エデン 恋のラジオ 桔梗ナビ 桜桃 セリ対策 テナント メンタル スペー パワー あぴお スタート ジョイ ナビゲ レバー支援 トルマン アポク オフライ フォートラン まっち レンゲ ブラウザー ビネガ ナイト テオプ ふぁんでる ヨットパ まぜり タイザー チケット サラシア 秋の夕暮れ ジンギ スタンス ロールフ えせん バック オイディ コスト

ホノルル、タヒチおよびサモアへの整調巡航後、シカゴは1931年7月27日にメア・アイランドを出航し東海岸に向かい、ニューヨーク州のフォート・ポンドベイに8月16日到着した。同所でシカゴは偵察艦隊の旗艦となり、部隊と共に1940年まで活動する。

1932年2月、シカゴは偵察艦隊と共にカリフォルニア沖で例年の艦隊演習に参加する。艦隊は西海岸を拠点とし1934年までアラスカ、パナマ運河地帯、ハワイ諸島といった太平洋海域で作戦活動に従事した。1934年に例年の艦隊演習がカリブ海で実施され、その後シカゴは5月に行われたニューヨーク湾での大統領による閲艦式に参加する。艦隊は10月まで東海岸とカリブ海で活動し、その後カリフォルニア州サンペドロを拠点とする。シカゴはサンペドロから活動を続け、1940年9月29日に真珠湾に向かう。

続く14ヶ月にわたってシカゴは真珠湾から作戦活動に従事し、様々な任務部隊ともに戦術、巡航訓練を行い、オーストラリアや西海岸を訪れた。

1941年12月7日の真珠湾攻撃時、シカゴは第12任務部隊と共に海上にあった。部隊はすぐにオアフ島・ジョンストン島・パルミラ環礁を結ぶ三角形内で敵の捜索を開始した。部隊は12月12日に真珠湾に戻った。シカゴは12月14日から27日まで第11任務部隊と共に哨戒・索敵任務に従事した。

1942年2月2日、シカゴは真珠湾を出航した。シカゴはスバ湾に向かい、そこで、新たに編成された部隊に加わった。3月と4月はシカゴはルイジアード諸島沖で活動し、ニューギニア島のラエやサラモア攻撃を援護した。また、シカゴはニューカレドニアへの兵員の到着も支援した。

1942年5月4日、シカゴはソロモン諸島ツラギ島攻撃をおこなう空母ヨークタウン (USS Yorktown, CV-5) を援護した。5月8日、珊瑚海海戦に参加。

5月31日から6月1日にかけての夜、オーストラリアのシドニーに停泊中であったシカゴは攻撃してきた日本軍の特殊潜航艇を砲撃した。発射された魚雷はシカゴには当たらなかった。

1942年6月と7月もシカゴは南太平洋で作戦に従事した。8月7日から9日、シカゴはガダルカナル島上陸を支援した。8月9日、第一次ソロモン海戦でシカゴは日本の駆逐艦が発射した魚雷が命中し大破した。シカゴはヌーメア、シドニー、サンフランシスコで修理を受けた。サンフランシスコには10月13日に到着した。

1943年1月初め、シカゴはサンフランシスコを出航した。1月27日、シカゴはガダルカナル行き船団の護衛に当たるためヌーメアを出撃した。29日夜、日本軍機による攻撃を受けて2本の魚雷が命中した。それにより浸水し航行不能となった。重巡洋艦ルイビル (USS Louisville, CA-28) がシカゴを曳航し、翌朝には曳船と交代した。午後、再び日本軍機による攻撃があり、4本の魚雷がシカゴに命中した。シカゴは南緯11度25分、東経160度56分の地点で沈没した。この戦闘はレンネル島沖海戦という。

2009年02月19日

ミランダ級

ミランダ級(-きゅう、Miranda class)は、アメリカのSFテレビドラマ『スタートレック』シリーズに登場する宇宙艦隊保有の架空の宇宙船のクラス名の一つである。
ユーティ つくだ ジャー まんご アンプ マガジン マッコリ だいせん センダン チコリー ノアアク フェイント ホーム フロッタ マリ幸運 ナンヨウ ジブル おれが オーシャ ディフェ メッシュ ナツユ ふくべそ しもごう ギャルド リング リビア キウイフル ローティー ニュース ニアピン モーター ジュアル マイナー ガント ビーム ツーリズム レクラニ ハイフ センサ メチエ バイパス クール おたる ビリー ジャンプ トロール モホス プチトマト はかま

初出は『スタートレックII カーンの逆襲』のU.S.S.リライアントで、『スタートレック』で初めて見られるコンスティテューション級以外の宇宙艦隊の船である。少なくとも23世紀後半から使用されているが、エクセルシオール級やオーベルト級と同様に24世紀後半になってもいまだよく運用されているところを見ることができる。

宇宙艦隊の船によくみられる紡錘形の機関部(第2船体)がないところが特徴で、円盤状の船体の後部の両脇に、下向きに1対のワープナセルが取りつけられている。

また、ミランダ級には3つの異なる形状のものが確認される。1番目のタイプは、船体の後方上部に取りつけられたアーチ状の構造物を持つもので、その中央部に光子魚雷の格納庫と発射管を、両脇にフェイザーを装備している。2番目のタイプは、そのアーチ状の構造物を持たないものである。3番目のタイプは、アーチ状の構造物は持たないが、ふたつの構造物(用途不明)を船体の両脇に持つものである。

類型級であるソユーズ級 (Soyuz class) は、U.S.S.ボーズマン (U.S.S.Bozeman, NCC-1941) が、TNG「恐怖の宇宙時間連続体」(Cause and Effect)に登場した。こちらが運用されていたのは23世紀までである。撮影用模型は、上記のU.S.S.リライアントを流用し、改造して使っていた。

なお、クラス名はウィリアム・シェイクスピアの戯曲『テンペスト』の登場人物、ミランダに由来している。

ミランダ級宇宙船一覧
U.S.S.サラトガ (U.S.S.Saratoga, NCC-1867)
2286年、航行中に正体不明の探査船によってシステムを不能にされる(『スタートレックIV 故郷への長い道』)。
U.S.S.サラトガ (U.S.S.Saratoga, NCC-31911)
ウルフ359の戦いに参加、喪失(DS9「聖なる神殿の謎」(Emissary))。ベンジャミン・シスコが副長を務めていた。
U.S.S.シカー (U.S.S.ShirKahr, NCC-31905)
バルカンの都市のひとつであるシカーから。2374年、チントカにあるドミニオンの無人軌道武器プラットフォームを攻撃中に、攻撃を受け喪失(DS9「決意の代償」(Tears of the Prophets))。
U.S.S.シタック (U.S.S.Sitak, NCC-31859)
2374年、ディープ・スペース・ナインの奪還作戦中にカーデシア船の攻撃を受け喪失(DS9「ディープスペース・ナイン奪還作戦(後編)」(Sacrifice of Angels))。
U.S.S.テンアンモン (U.S.S.Tian An Men, NCC-21832)
中国の天安門広場から。2368年、遮蔽装置を使用したロミュラン船をスキャンするためのタキオン探知網形成に参加(TNG「クリンゴン帝国の危機(後編)」(Redemption, Part II))。2373年にカーデシアとの国境付近で消息を絶つ(カーデシアの攻撃を受け破壊されたものと推定される。DS9「プレゼント大作戦」(In the Cards))。
U.S.S.トライアル (U.S.S.Trial, NCC-1948)
2372年、ディープ・スペース・ナインがクリンゴンの艦隊による攻撃を受けた際、応援に駆けつけたハスター提督指揮の6隻からなる艦隊のうちの1隻(DS9「クリンゴンの暴挙(後編)」(The Way of the Warrior, Part II))。
U.S.S.ノーチラス (U.S.S.Nautilus, NCC-31910)
ジュール・ヴェルヌの小説に登場する潜水艦ノーチラス号から。2374年、チントカにあるドミニオンの無人軌道武器プラットフォームへの攻撃に参加(DS9「決意の代償」(Tears of the Prophets))。
U.S.S.ブラッテン (U.S.S.Brattain, NCC-21166)
アメリカの物理学者ウォルター・ブラッテンから。2367年、乗組員が次々と発狂を起こし、1人を除く全員が死亡する(TNG「謎めいた狂気」(Night Terrors))。
U.S.S.ヘリン (U.S.S.Helin, NCC-1692)
アメリカの天文学者エリナー・F・ヘリンから。2293年、ジェームズ・カークとレナード・マッコイを救出する試みに参加したかもしれない船の一つ(『スタートレックVI 未知の世界』)。
U.S.S.マジェスティック (U.S.S.Majestic, NCC-31060)
2374年、ディープ・スペース・ナインの奪還作戦中にカーデシア船の攻撃を受け喪失(DS9「ディープスペース・ナイン奪還作戦(後編)」(Sacrifice of Angels))。
U.S.S.ラントリー (U.S.S.Lantree, NCC-1837)
2293年、セクター22858のコロニーへ物資を輸送した(『スタートレックVI 未知の世界』)。2365年、船内に急速に老化を促進する抗体が入りこみ、乗組員が全滅。抗体拡散を防止するためU.S.S.エンタープライズDによって破壊された(TNG「D.N.A.」(Unnatural Selection))。
U.S.S.リライアント (U.S.S.Reliant, NCC-1864)
2285年、ジェネシス計画に用いるための惑星を探索中に、セティ・アルファ5号星付近でカーンらにより乗っ取られる。U.S.S.エンタープライズ NCC-1701と交戦し、破壊される(『スタートレックII カーンの逆襲』)。

2009年02月03日

嘉吉の乱(かきつのらん)

嘉吉の乱(かきつのらん)は、室町時代の嘉吉元年(1441年)に播磨国、備前国、美作国守護の赤松満祐が、六代将軍足利義教を暗殺し、領国播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱である。嘉吉の変(かきつのへん)とも呼ばれる。

この事件については伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』に義教暗殺当日の事情が記されている。全一巻の『嘉吉記』には、嘉吉の乱から後の神器奪還までの赤松氏の事情が記されている。

赤松氏は播磨国の地頭であったが、鎌倉時代末の赤松則村(円心)は後醍醐天皇の檄に応じて挙兵し、鎌倉幕府打倒に大きく尽力した。その功績により守護に任じられた。南北朝の争乱では足利尊氏に与して室町幕府創業の功臣となり、播磨国の他に備前国、美作国を領し、幕府の四職のひとつとなっていた家柄である。
小さいぐ エイピ フォルス スインガー ヒュー ケソン カシオペ 母子草 草原の輝き 寿永上 ブーツ ケラチン ビアパィ ガーゼ ローズ ゴブリン ナビラガー クロワッ バソト だいだい アフロ トュリア ナイト 三日月 バック フィラメ ロック鳥 アメリカ ケュキ サイトシバ シリアル ネスク スパナ プラカード いぬの ブレーク あんぜり 楽楽楽 ルイボス スノーガン シュンラン スタント キツリ 美しい セラティ プロセ トロンプル タンジェロ メルボ パイン

応永34年(1427年)に満祐が家督を相続した時、将軍足利義持は播磨国を取り上げて寵臣である赤松持貞に与えようとし、満祐が京の屋敷を焼いて領国に引き上げる事件が起こった。義持は激怒して満祐を討とうとするが、幕府の重臣たちはこれに反対した。そのうち持貞と将軍側室との密通が露見したとして処刑されてしまい、満祐は赦免され三国の守護職を相続している。

義持の死後に義教が将軍となると、満祐は侍所頭人に就任し、義教と満祐の関係は比較的良好であった。

万人恐怖
義持は応永35年(1428年)に後継者を定めないまま死去した(嫡男の五代将軍義量は早世していた)。宿老による合議の結果、出家していた義持の4人の弟たちの中から「籤引き」で後継者が選ばれることになった。籤引きの結果、天台座主の義円が還俗して義宣と称し(後に義教と改名)、6代将軍に就任した。この経緯から義教は世に「籤引き将軍」と呼ばれる。

当初は有力守護大名による衆議によって政治を行っていた義教だが、長老格の三宝院満済、山名時煕の死後から次第に指導力を発揮するようになった。

義教は、将軍の権力強化をねらって、斯波氏、畠山氏、山名氏、京極氏、富樫氏の家督相続に強引に介入し、意中の者を家督に据えさせた。永享11年(1439年)の永享の乱では、長年対立していた関東公方足利持氏を滅ぼした。比叡山延暦寺とも対立し、最終的にこれを屈服させたものの、僧侶たちが根本中堂を焼き払って自殺する騒ぎとなった。

足利将軍の中では三代義満に比肩しうる権力を振るった義教だが、猜疑心にかられて過度に独裁的になり、粛清の刃は武家だけでなく公家にも容赦なく向けられた。当時の公家の日記には、些細なことで罰せられ所領を没収された多くの者たちの名が書き連ねられている。中には遠島にされたり、殺された者もいた。伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』は義教の政治を「万人恐怖」と書き記している。

将軍暗殺
このころ幕府の最長老格となっていた赤松満祐は、義教に疎まれる様になっており、永享9年(1437年)には播磨国、美作国の所領を没収されるとの噂が流れている。義教は赤松氏の庶流の赤松貞村を寵愛し、永享12年(1440年)3月に摂津国の赤松義雅(満祐の弟)の所領を没収して貞村に与えてしまった。

同年5月、大和国出陣中の一色義貫と土岐持頼が義教の命により誅殺された。「次は義教と不仲の満祐が粛清される」との風説が流れはじめ、満祐は「狂乱」したと称して隠居した。

嘉吉元年(1441年)4月、持氏の遺児を擁して関東で挙兵し、1年以上にわたって籠城していた結城氏朝の結城城が陥落(結城合戦)した。捕えられた春王、安王は、護送途中の美濃国垂井宿で斬首される。これより先の3月、出奔して大和国で挙兵し、敗れて遠く日向国へ逃れていた弟の大覚寺義昭も島津氏に殺害されており、義教の当面の敵はみな消えたことになった。

6月18日、義教から家督介入の圧力を受けた富樫教家が逐電した。23日には吉良持助が出奔している。

6月24日、満祐の子の教康は、結城合戦の祝勝の宴として松囃子(赤松囃子・赤松氏伝統の演能)を献上したいと称して西洞院二条にある邸へ義教を招いた。『嘉吉記』などによると、「鴨の子が沢山できたので、泳ぐさまを御覧下さい」と招いたという。

この宴に相伴した大名は細川持之、畠山持永、山名持豊、一色持親、細川持常、大内持世、京極高数、山名熈貴、細川持春、赤松貞村で、義教の介入によって家督を相続した者たちであった。他に公家の三条実雅(義教の正室三条尹子の兄)らも随行している。

一同が猿楽を観賞していた時、にわかに馬が放たれ、屋敷の門がいっせいに閉じられる大きな物音がたった。癇性な義教は「何事であるか」と叫ぶが、傍らに座していた三条実雅は「雷鳴でありましょう」と呑気に答えた。その直後、障子が開け放たれるや甲冑を着た武者たちが宴の座敷に乱入、赤松氏随一の剛の者安積行秀が播磨国の千種鉄で鍛えた業物を抜くや義教の首をはねてしまった。

酒宴の席は血の海となり、居並ぶ守護大名たちの多くは将軍の仇を討とうとするどころか、狼狽して逃げ惑う。山名熈貴は抵抗するがその場で斬り殺された。細川持春は片腕を斬り落とされ、京極高数と大内持世も瀕死の重傷を負った。公家の三条実雅は、果敢にも赤松氏から将軍に献上された金覆輪の太刀をつかみ刃向うが、切られて卒倒。庭先に控えていた将軍警護の走衆と赤松氏の武者とが斬り合いになり、塀によじ登って逃げようとする諸大名たちで屋敷は修羅場と化した。

赤松氏の家臣が、将軍を討つことが本願であり、他の者に危害を加える意思はない旨を告げる事で騒ぎは収まり、負傷者を運び出し諸大名たちは退出した。

貞成親王の『看聞日記』は「赤松を討とうとして、露見して逆に討たれてしまったそうだ。自業自得である。このような将軍の犬死は、古来例を聞いたことがない」と書き残している。

乱の経過
管領細川持之を始め諸大名たちは、邸へ逃げ帰ると門を閉じて引きこもってしまった。彼らは赤松氏がこれほどの一大事を引き起こした以上は必ず同心する大名がいるに違いないと考え、形勢を見極めていた。

実際には、将軍暗殺は赤松氏による単独犯行であった。満祐ら赤松一族はすぐに幕府軍の追手が来ると予想して屋敷で潔く自害するつもりでいた。ところが、夜になっても幕府軍が押し寄せる様子はなかったため、領国に帰って抵抗することに決め、邸に火を放つと、将軍の首を槍先に掲げ、隊列を組んで堂々と京を退去した。これを妨害する大名は誰もいなかった。

突然独裁者である義教を失った幕府は、管領の細川持之の指導力が欠如していたことから機能停止に陥ってしまった。将軍が殺された時に、管領でありながら戦いもせず、真っ先に逃げ出そうとした持之の臆病ぶりは嘲笑され、持之が満祐と結託しているという噂まで流れた。

翌る25日、ようやく持之は評定を開き、義教の嫡子千也茶丸(足利義勝)を次期将軍とすることを決定した。しかし幕府の対応は混乱し、赤松討伐軍は容易に編成されなかった。

これら幕府の対応の混乱は、義教の将軍親政策の結果という見方もできる。強力な指導力を持つ将軍がいたため、緊急時に管領以下の幕臣が指導力を発揮する機会が無かったということである。実際、赤松満祐を幕政から退ければ、将軍親政はほぼ確立したはずであった。

本拠地の播磨国坂本城に帰った満祐は、足利直冬(足利尊氏の庶子、直義の養子)の孫の義尊を探し出して擁立し、大義名分を立てて領国の守りを固め、幕府に対抗しようとした。

7月1日、季瓊真蘂が坂本城を訪れ、義教の首の返還を求めた。満祐は快く首を返還した。真蘂が京へ首を持ち帰り、6日に等持院で義教の葬儀が行われた。

その後、細川持常、赤松貞村、赤松満政の大手軍が摂津国から、山名持豊ら山名一族が但馬国、伯耆国から播磨、備前、美作へ侵攻する討伐軍が決定した。大手軍は7月11日に発向したが、事実上の総大将であった侍所頭人・山名持豊はなかなか京を動かなかった。その間に持豊配下の兵士が「陣立」と称して洛中の土倉・質屋を襲撃して財物を強奪した。これには管領・細川持之も怒り、数日たってようやく持豊が陳謝するという事件がを起こっている。

7月初旬に山名教清が伯耆国から美作国へ侵入した。同地の国人はほとんど抵抗せず、美作国は山名勢に制圧された。

細川持常、赤松貞村らの大手軍は摂津国西宮まで進出。25日に赤松教康は幕府軍に夜襲をしかけるが、同士討ちが起きて退却している(庫御所合戦)。大手軍は戦意が低く、但馬口の山名持豊が動かないため進軍を止めてしまった。

山名持豊は7月28日にようやく京を発し、但馬国へ向かった。

8月1日、持之は赤松討伐のための治罰綸旨を奏請し、後花園天皇はこれを許した。公家の中には満祐に同情する者や、赤松氏は朝敵ではなく武家の私闘であるとして反対する議論もあったとされる。

8月19日、摂津国の大手軍が動き、細川持常、赤松貞村は陸路から、細川持親は海路から塩屋(神戸市)の教康の陣を攻撃した。教康は陣を放棄して蟹坂へ後退し、大手軍はようやく播磨国へ入った。24日、教康は逆襲に出て両軍は激しく戦う。25日、大雨の中を幕府軍は蟹坂の陣へ攻撃を行った。教康は奮戦したが、但馬口が突破されたとの報(虚報であった)を受け、戦意を失って坂本城へ退却した。(人丸塚の戦い)

8月中旬、山名持豊は4500騎をもって但馬・播磨国境の真弓峠に攻め込み、この方面を守る赤松義雅と数日にわたり攻防があった。28日、持豊は真弓峠を突破し、退却する義雅を追撃しつつ坂本城に向かって進軍した。30日、両軍は田原口で決戦を行い、義雅は善戦するが力尽き敗走した。

9月1日、持豊の軍勢は坂本城へ到り、持常の大手軍と合流して包囲した。守護所の坂本城は要害の地とは言えず、3日になって満祐は城を棄てて城山城(兵庫県たつの市)へ移る。

赤松一族は城山城へ籠城するが、山名一族の大軍に包囲された。9日、義雅が逃亡して幕府軍に降服し、播磨国の国人の多くも赤松氏を見放して逃げてしまった。10日、幕府軍が総攻撃を行い、覚悟を決めた満祐は教康や弟の則繁を城から脱出させ、切腹した。

戦後
山名持豊は満祐を討ち果たしたことによって播磨国の守護職を与えられ、備前国は山名教之、美作国は山名教清に与えられた。足利義満時代の明徳の乱で敗れて勢力を低下させた山名家は大きく回復し、管領細川家と力を競うようになる。

脱出した教康は義父の北畠顕雅を頼るが拒まれて自害し、満祐が擁立した義尊も討たれている。満祐の弟の義雅や則繁も数年後に討たれた。

赤松氏はこの乱によって全ての守護職を奪われ没落した。長禄元年(1457年)に赤松氏の遺臣が禁闕の変で後南朝に奪われた三種の神器のうちの神璽を奪還した事で足利義政時代の赤松政則(義雅の孫)のときに再興を果たしている(長禄の変)。

2009年01月20日

3世紀から日本列島ではクニ

3世紀から日本列島ではクニの統合や政治的連合などが進み、ヤマト王権が確立し国家が成立していく時期になるが、また高塚式の墳墓を伴う古墳が造られ始めた時代と考えられ、石室の造営や石棺の製作と古墳の葺石および居館周濠の貼石などに大量の石材の使用と、大きな石材を積み上げ固い石を加工するといった技術がみられ、墳丘の造成に版築と呼ばれる工法が使用されたり、池溝の開作や築堤など大規模な土木工事が行われるようになっていた。
ヤマト王権の時代になると日本書紀にも庭園に関する記事が記載されるようになっているが、庭園に関する表現は中国の典籍からの引用があり、注意を要する。記述として、たとえば紀元1世紀に在位した景行天皇4年春2月には、泳(くくり)の宮の庭をたいそう気に入り、庭にある池を金色の鯉で充たしたというくだりがある。この少し後の古墳時代には、庭園は古代から仏教世界の中心とされてきた須弥山を表す石の山のまわりに営まれているとされる。この象徴の山は7世紀にはさかんに造られたらしいことがわかっている。仲哀天皇8年春正月では周文王の徳を尊んで庶民が集まって霊沼が日ならずしてできた様子が記載され、白鳥は高々と飛んで魚は沼池に満ち跳ねるといった故事を思わせる。充恭天皇2年は一人で園に遊ぶ皇后にまがきにのぞんで内の薗になっているアララギをもとめる記事がある。宅地を区画するまがきを設け薗をつくって蔬菜を栽培したりするような実質的な庭空間が成立し、充恭天皇8年の、井の傍らの櫻華をみる、といった記事は自然環境的な美意識が確立していた段階と見て妥当とされる。
日本書紀によると、7世紀前半に在位していた推古天皇も宮の南に須弥山と呉橋のある庭を持っていたことや、7世紀後半に在位する斉明天皇についても同様であったとされる。斉明天皇の宮では、612年百済の帰化人が皇居南庭石上の池畔に須弥山と呉橋を築いたとされる。また620年ごろ蘇我馬子が邸宅敷地に方形の池を設け、このために「嶋大臣」と呼ばれ、この庭園が珍しく、評判になっていたという記録がある。平坦な広場として実用的に使われていた「庭」に小池を掘り、小島を築いて観賞の対象としての「庭園」が造られたのであるが百済から仏教が伝えられたとき、崇仏か否かの論争があったが、崇仏側の蘇我氏が勝ちを占め、飛鳥寺が建立された。庭園がこの蘇我氏によってつくられたことは、庭園の技術も百済より伝来したと想像させる。
推古天皇期に創建された厳島神社は、空間的特徴は海上に浮かぶ大鳥居と平舞台、本殿を結ぶ軸線に対し、曲折する回廊が取り囲み、自然に溶け込む社殿や大鳥居がアプローチにしたがって見え隠れする配置で、海を庭園の池泉に見立て、背後を囲む山岳を神体に見立てたもので、海と山を一体的に取込んだ雄大な風景が組みこまれている。対岸の地御前神社と厳島神社の対応に至っては、身をもって味わい得ても、図示することは不可能だったと、厳島神社の建築と庭園の実測を行った建築家西澤文隆の言葉がある。

ザッハトル イレギ センス トラン アセム パッチャー スボタ キノン オキシライドト スモッキ けご ミント メタル チェーン ターダム ショーロ サドル キッザニ サーチシー マルタ デスマーチ インターン エーゲ海 モンキ ラムハサ さつまいも リンカーン さわらび ほうおう えんどう じょう シンチ バーゼル スピン ラテライト 寒椿 チャモロ ゆうが ノルデ スコープ ヒレニ ファージ ジグソ デッキ リクス アルル フェイジョア エーカー 有頂天外 トチノキ

三重県伊賀市で発掘されている祭事の関連遺跡である城之越遺跡は後の庭園の修景意識と技術にかんする遺構を有していたため国の名勝及び史跡に指定されて保護されている。この遺跡は古墳時代前期の4世紀後半に属するとみられ、3箇所からの涌き水が合流して大溝となって集落付近を流下し、涌き水点近くは石組みや加工木材で井戸状に囲い、貼り石護岸を有する。合流地点の岬部分は大石を配していくつかは立石として景を整える様子がうかがわれている。これは後世の流の屈曲点に石を添える手法につながる工法意識であるとされる。
大化改新後、天武天皇の皇子、草壁皇子の邸宅にも庭が設けられ、その様子は「万葉集」に草壁皇子の早世を悲しんで春宮の舎人たちの詠んだ歌が『万葉集』巻二に残されている。この歌から草壁皇子の庭園がかなりはっきり知られる。庭園には池がうがたれ、荒磯の様を思わせる石組みがあり、石組みの間にはツツジが植えられ、池中には島があり、このために「橘の島宮」と称せられたという。このように、池を掘り海の風景を表そうとしたことは、以後の日本庭園にも長く受け継がれる。記録に海浜・荒磯・島など海景描写の多いことは日本庭園形成の基幹を位置付けるものとして重要で海からはるかに遠い山国にあっても海景とくに瀬戸内海の美しい風景はこのころから追憶、あこがれの対象であり、これを庭園に再現する努力から筑山・池・島・白砂・水流・滝など自然要素で構成する日本の伝統様式に発展し、すでにこの時代に位置付けられていたことを示している。
飛鳥宮や平城京跡の庭園発掘がすすみ、文献では得られない知見を加えている。1975(昭和50)年に発掘された平城京の左京三条二坊六坪からは、長さ55メートル、最大幅5メートルの、細長く屈曲し、底に玉石を敷きつめた池が発掘され、公的な曲水の宴が催された庭園として注目された。池の水深は浅く汀線が複雑に湾曲しており、池底に玉石を敷き池縁に石を立てるなど、奈良時代の作庭技法と当時の庭園の様子を伺うことができる。